某月某日某曜日

近頃の世の中を鑑みるたびに、僕は、映画『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』の魔女狩りのシーンを想起してしまうのであります。理屈にならぬ理屈をつけてただただこいつは魔女に違いないから燃やせ! 燃やせ! と繰り返し、無意識の共犯意識でもって、誰かを火あぶりにしてしまう、そうまでして火あぶりを見たいと念願する大衆の姿が笑いを纏う形で描かれていて、物情騒然とする近頃の世の中と見事に合致しているように思われてなりません。

閑話休題

物情騒然たる世の中に嫌気がさした時には自ら進んでたおやかな時を過ごすように努めよう。なんて、しゃっちょこばったようなことは全然考えておらなくって、単に、興味があったから、という理由で、僕は、先日、東京は江戸川区平井駅のそばにある「ひらい圓蔵亭」に足を運んだのである。 ここは、かつて月の家円鏡としてマスコミで売れまくり、その後、八代目橘家圓蔵を襲名するに至った、昭和を生きた記憶のある人ならばみんな知っている圓蔵師が、終の住処とした邸宅を江戸川区が買い上げ、圓蔵師の足跡や功績、使用していた品々などを展示するスペースとして開放している、てな小粋な場所だ。

お鍋すっかり食うものなし

いかにも東京の噺家らしい小ざっぱりとした邸宅をほぼそのまま使用していると思しきスペースだから、展示される内容は膨大というわけではないのだが、なんというか、それが却って、大変に居心地の良い空間となっているようで、なんだか、圓蔵師の、いつも上機嫌な芸風を思い起こさせるようで、ずっと居たいような空間になっていると感じた。 上にあげた写真のように高座が設えられている部屋もあり、聞けば、日曜日などには落語会や昔話の会なども開かれているという。 また、圓蔵師のビデオ映像が複数観られるスペースもあり(このスペースもほとんど普通の居間の様相)、僕はそこで火焔太鼓を観せてもらった。親切にお茶まで出してもらった。そうして観終わりふと振り返ったら、そのスペースには、圓蔵師所蔵と思しき落語や演芸関連のレコードの数々があって、中には『円鏡VSツービート』なんてのもあったりして、いやもう、なんていうか、僕にとってのディズニーランドですよ、なんて思ったりした。 帰る道すがら、なんだか、いつもと同じ風景がいつもと違って見えるような気がして、ああ楽しかった。物情騒然たる浮き世をしばし忘れた。なんて思った。

閑話休題

閑話休題

閑話休題

閑話休題

このぐらい開けないと次の話題には入れませんな。

閑話休題

なんつーかあれですね、野党の女性議員の皆さんが#me tooと書かれたプラカードを持ち、黒い服を着用してなんかアピールをしている図、ってのは、尻馬に乗る、の具現、という感じがしてとても面白いですね。

閑話休題

あとあれですね、昔っから思っていましたが『サンデーモーニング』なるテレビ番組内の、スポーツコーナーにおける関口宏氏の態度というのも、人を小馬鹿にする、の具現、という感じがしてとても面白いですね。

閑話休題

っつーかあれですよ、やれ政治を動かすだの、国を変えるだの、そんなことのためにインターネットを使わないでくれよ、って僕なんかは思いますです。

閑話休題

あのー、SNSが普及してから頓に思うのですが、ツイッターなんかで政治だとか社会情勢について評論したり語ったりしている人たちって、どうしてあんなに人を見下したような物云いをするんですかねぇ。そうしてまた、そういう人が時折云う冗談的なつぶやきって、まず間違いなくつまらないのですな。こういう人たちのつまらない冗談を見ていて感ずるのは、この手の人たちってのは、冗談を云うときに、上から降りてきて云ってる感覚、があるんだろうなあ、と思うんですよ。こんなに頭のいい私が君らみたいな無知蒙昧の徒のレヴェルに合わせて冗談などと云う下賎なものを云ってあげるよ、みたような高慢ちきな意識が透けて見えるんですな。だから見ていて鼻持ちならんし、云った当人だけが嬉しがっているように見えちゃうン。 翻って、面白い人が面白いことを云う時ってのは、高みに登ろうとするんですな。知識と感性を動員して、普段の生活空間では思いもよらないような感覚や表現にたどり着こうとするン。そういう違いがあるように僕なぞは思いますです。

閑話休題

そうはいっても僕はいまの世の中は、面白い、がインフレーションを起こしていると思いますです。そんなにまでして面白くしようとしなくていいから、と思うことがすごく増えましたわいね。

閑話休題

あれだろうね、最近はあまり聞かなくなったけど、バカッター的なことを面白い、と思っている人(やる人のみに非ずでそれを見て喜んでる連中も含めてだ)てのも、笑わせる為に自分の身を馬鹿なところへ落とす感覚でやってるんだと思うなあ。ああいうのは単にルールを破るだけだものね。冒頭で紹介したホーリーグレイルのシーンなんて、やっぱり大衆の心底を突いているものね。そこがわからないと、単に、人を焼いてはいけないというルールを破れば面白くなる、と表層的に思っちゃうんだろう。近頃ネットで流行る「やってみた」系もそれに近いだろうね。

閑話休題

ではそんなことでお後がよろしいようで。なんかだんだん盛り上がってきたよ。

某月某日某曜日

ははははははははははは。あははははははははははははははははははは。

閑話休題

笑ったんである。

閑話休題

ベイスターズが8連勝したらそら笑うよ嬉しくって。だってこちとら1983年からずーっと応援しとるのだからね。今年は強いよ。去年までよりうんと強いよ。大和と神里が来たおかげで走る野球がぐんぐんにできているから、去年までみたいにガンガンに打たなくっても点が入る。そらまあリリーフ陣にちょっと不安があるけれども、それでもこら強いなあ。いまなら98年のマシンガン打線と勝負してもそこそこ闘えるくらいだろうなあ。いやしかし、長く観続けているとこういういい時代が来るんだなあ、と妙なる感慨に耽ってしまうン。時代は変わるよまじで。やっぱりなんでも続けなくっちゃダメだ。でももうちょっとチケットが取りやすくなるといいと思う。あと、昨今の横浜スタジアムは屈託のない若人が観客席を占めていて、私のような、オバQ田代、とか云われると条件反射でオイオイ泣くような屈託したおっさんの居場所がないのも少しく困る。

閑話休題

やはり野球に限らず長く観続けるという事は観客にとって肝要だと思う。たとい状況が悪くなったとて、観続けていればまたいい時代も来るかもしらん。いまから十年前には、ベイスターズという球団は早晩なくなるのだろうと思っていた。そのくらい当時はひどかった。それがここまでなるんだから。 他にも、自分はもう観るのをやめてしまったが、プロレスだってこんなにも再び世の中に受け入れられる時代が来るとは到底思わなかった。世紀の変わり目辺りに勃興した総合格闘技ブームに押されこのまま小規模になってゆくばかりだと思っていた。それがいまやテレビや雑誌にプロレスラー(まあその大半は新日本の選手か天龍や長州の引退かそれと同然の選手ばかりだけども)が出て違和感がなくなる時代が来るとは全く思わなんだ。なんでも諦めちゃダメだネ。

閑話休題

tumblrを閲していたら『中山美穂のトキメキハイスクール』という、八十年代半ば、ファミコンのディスクシステム用に発売された懐かしいゲームソフトの画像が流れてきて、ああそうだなあ。そういや昔はこういう芸能人の名前を冠したゲームがたくさんあったっけなあ、と思った。それだけ当時はゲームってものが世の中にとって小さい存在だったのだろうなあ、芸能人の存在を借りてまでゲームの存在を周知せねばならんかったのだろうなあ、要するに際物だったのだろうなあ、いまではゲームの存在がすっかり確立されたから、芸能人の名前を借りる必要がなくなったんだろうなあ、と思った。当代江戸家猫八先生がゲーム番組の司会をやっていたのなんてもう遥か遠い昔の話だ。

閑話休題

なんだか、なんの話をしても昔の話になってしまうなあ。いまはいまで結構楽しいと思って暮らしているんだけどなあ。げんに昨晩観たテレビドラマの『黒井戸殺し』も大変に面白かったしなあ。でもあれですよ、昔は『古畑任三郎』でこのレベルのドラマが毎週観られたんだよなあ、って、うわ、また昔の話をしている。

閑話休題

ではそんな事でお後がよろしいようで。やっばり大和はいま日本で一番守備の上手い内野手だあね。タイガース時代からそう思っていたけど、我が方に加入してくれたおかげでその考えが間違えではなかったと自信を持ったよね。しかもこれで外野をやっても猛烈に上手いんだから参っちゃうよなあ。

某月某日某曜日

そこにコンテンツはあるのかい?

閑話休題

大変に飽きっぽい私が唯一継続することができているSNSがTumblrなのだが、Tumblrの何が良いって、そこにコンテンツしかない、ということなんですな。Tumblrでは「誰が」は、ほとんど問われず「何が」が問われるような空間になっていて(まあこれはリブログが過剰に使われる日本特有の現象らしいのだが)、そこが堪らなく良い。

閑話休題

たといばこの、芸能人やモデルさんが集う世界というのは、やはり美人が集う場なのであって、だからそうした空間に美人がたくさんいる、というのは当たり前のこと。それはまあ、美人の姿というのは目にするだけで嬉しくなるものだから、そうした芸能人やモデルを見てうっとりするけれども、云ってみればそれは動物園で動物を見るのと大差ない。しかしながらこれが、本来であれば美人がいる必要のないところ、必要のない場面で、場の空気を超越したような美人に出くわすと、不意打の効果が働いて余計に嬉しくなる、ということがあるように思う。 最前、僕は、本人確認郵便を受け取りに近傍の郵便局に赴いた。そうして、局内のゆうゆう窓口にて、係りの人にその旨を伝えようとして驚いた。なんと係りの人が広瀬アリスみたいなわかりやすい美人だったのである。広瀬アリスがゆうゆう窓口の人が着る、紺を基調とした地味な作業着みたいな制服を着用して僕に応対してくれるのである。僕は、テレビで広瀬アリスを見るよりも数等嬉しい気分となって、持参した本人確認書類などをウッキウキで手渡し、そうして夢心地のまま、届いた郵便物を、こんなところにいるとは想像だにしなかった広瀬アリスみたいな美人の係りの人からウッキウキと猿みたいになって受け取ったのである。

閑話休題

しかしふと思った。たといそこに広瀬アリスみたいな大変な美人の係りの人がいたところで、別段、僕はこの美人とお近づきになれるわけではない。彼女と生活を共にする機会が訪れるはずなどないしそのつもりもない。もしもそのつもりがあると思ったりしたら、それは完全に頭のイカれた男、菊池桃子の自宅に押しかける元タクシー運転手と同じになってしまう。つまりこの場合、係りの人が美人だったからなんとなく嬉しい、というだけのことであって、だとすると、美人でありさえすれば、仮に係りの人がアンドロイドだったとしても、僕は当然嬉しくなるんだろうと思った。 今日の場合、僕が嬉しくなったのは、係りの人が美人だったというその一点においてのみなのであって、彼女の性格をはじめとする内面性には一切の評価を下していない。だとしたらこれはもう造形が美しくありさえすればいいのであって、だからアンドロイドでも一向に構わない。女性の皆さんだって係りの人がイケメンだったらちょっとは嬉しいでしょうよ。六角精児みたいな一筋縄でいかないようなおっさんが対応してくれるよりはうんと嬉しいでしょうよ。いずれはそんな時代になるよ。窓口業務は全員見目麗しいアンドロイドたち、ってことに。

閑話休題

でもあれよね、そんな見目麗しいアンドロイドたちに、理屈も道理もなにもないような、自分勝手な云いがかりめいたクレームを入れてくる迷惑千万な客、ってのは、やっぱりいるんだろうねぇ未来の世界にも。いや、あー、っつーかあと二十年もしたら窓口業務なんてなくなるのか。なくなるんだろうな。

閑話休題

なんつーかあれですね。大谷翔平って、ダルビッシュやイチローほど面白味のあるプレイヤーじゃないよなあ、と昨季までは思っていたのですが、今季、メイジャーリーグ(ここは是非パンチョ伊東の声音で読んで頂戴)でのプレーぶりを観るに、嗚呼、この人ァ最初っからメイジャーリーグで活躍をすることを念頭に置いて自分を作ってきたんだろうなあ、と感じています。そのくらいメイジャーリーグの空気に合致しているように見える。プレースタイルから立ち居振る舞い醸し出す雰囲気含めて。

閑話休題

つーか、あれだろうなあ、想像するに、相撲界っていうのは、内側にいる人々にとっては、相当に居心地のいい世界なんだろうなあ。でなけりゃあ、全国で興行を打っている団体なのに、こんなに時代と乖離していて平気なわけないものなあ。伝統を守るのも既得権益を守る方策、みたい意識になっちゃってるんだろうなあ。

閑話休題

しかしあれですね、昨今、購入した製品の使い方や、ゲームの攻略法などを調べようと思って検索をかけると、必ずと云っていいほど検索結果の上位に、〇〇に挑戦!、ってな見出しと共に、目を見開いたヒカキン氏のサムネイルが出てきて、あのー、すっげーイラっとしますね。

閑話休題

しかしあれですよ、桜が散る頃となると、それと入れ替わるように、それまで枯れていた色々な木々が芽吹き始め、林や森が日に日に新緑の度を増してゆきますが、その光景を見るにつけ、自然ってのはよく出来てるなあ、最初の設計が相当によくできていたんだろうなあ、と思いますです。これを人間がやると杉の植林が為に花粉症が、みたようなことになるんだろうね。どうあっても自然には敵いませんや。

閑話休題

ではお後がよろしいようで。またね。

某月某日某曜日

短文でゴー。

閑話休題

今は春、卯月も始まったばかり。だというのに初夏の陽気が続く。私なぞはもうすっかり若さを失っているからこの気候の異様なことに軀が全く追いついてゆかず日永ぼうとしている。そんな茫漠たる思考で思うことは、うーん、たといばこの、松尾芭蕉みたいな人だったらこの異様な気候の中にあっても、なんかいい感じの句とか詠むんだろうな、なんてことでありんす。

閑話休題

ああそうなあ、我輩が小学生の低学年だったいまからおよそ四十年前には、進級直後、新学期の授業を受けながら、桜が舞い散るのを教室の中から眺めておったっけなあ。神奈川県東部のお話ですよ。

閑話休題

この時期になると各SNSで新入社員の皆さんに、なんか良さげなメッセージみたいなのを書いて悦に入っている人が結構いるけれども、ああいう手合いのいうことだけは聞かんほうがいいぞ、と、フレッシャーズの皆さんにお伝えしたいと僕は思いますです。あれってのあ、新人にアドヴァイスをしている自分が好き、みたいな謎のロシア人、ジブンスキーだから。要は先輩面をしている自分に酔ってるだけだもの。

閑話休題

過日、夕刻、疲れた体を引きずり住まいの最寄駅を始発とする路線バスに乗車したところ、こらまたどういうわけだ、普段はバスに乗ってこないような爺さんの集団×1、婆さんの集団×1、が乗車してきた。それぞれ六人ぐらいのその二個師団ときたらまあうるさいことこの上ない。酔っ払っているわけでもなさそうなのに車内に響き渡るような、耳を聾さんばかりの大声で卑近かつ下品極まる話を延々と続けている。剰え、走行中だというのに立ち上がって歩いたり、盛大な音を立てて物を落としたりと、到底まともな大人とは思えぬ乱暴狼藉を繰り返していて呆れた。若者が公共の場で騒ぐのはいわゆるところの意気がっている、という奴で、自分らが不埒なことをしていると承知の上でやっていることがほとんどだが、これがこと年寄りの行為となると自然天然に騒々しく振る舞う。なんというか、当節、若者よりも年寄りの方がよほど傍迷惑な人間が多い。団塊の世代、だかなんだか知らないが、無駄に人間の数が多い世代、つまりは分母が大きいから当然、それだけどうしようもない奴も増えるのだろう、とは理解しているが、それにしてもひどいや。

閑話休題

自分も老い、が近づいてきている所為か、どうしても老人の振る舞いに目がゆくようになるね。若い頃は老人のことなんかまるで気にならなかった。まあ、今のうちに、こういう風になってはいけない、という、べからず集を自分の中に作っておこうっと。

閑話休題

なんつーか、能年玲奈ちゃんの独立騒動やSMAPの解散騒動のあたりから、テレビの中の世界の変貌がはっきりとした形でわかるようになった、そんな気がしてならんね。まあ、個人的にはもうほとんどテレビ観ないからどうでもいいけど。『めちゃイケ』とか『みなさんのおかげでした』の終了もその流れ、という気がするよ。

閑話休題

そんなことより『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』が週一の放送になることの方が僕にとってはよほど大きな変化だ。ますます金曜たまむすびを聴かなければならんようになった。

閑話休題

Nintendo Switchのゲームで最近面白かったのは『ゴルフストーリー』ですな。つーか、まだ遊び始めたばかりだけどこれは面白い。どう面白いかは説明するのが面倒だから教えないけれど、これで千五百円というのは破格と思うなあ。こんなゲームがこんな安価で遊べるんだからいい時代だよう。

閑話休題

ベビーカーを押しているときですら歩きスマホをするような熱心な皆さんの姿を見る度に、ああ、この人たちと僕とではスマホに対するイメージがまるで違うんだろうなあ、まるで違う種類の機械だと認識しておるのだろうなあ、という思いに駆られますです。歩きスマホの皆さんにとってのスマホってのは電話の延長線上にある、連絡のためのツールなんだろうなあ、と。翻って僕にとってのスマホというのはMSXなど、小供の頃から弄ってきたパソコンの延長線上にある、とっても楽しいオモチャ、なのだよなあ。

閑話休題

そういえば近頃、街中でもハンズフリーで通話をしている人が増えたよなあ。イヤホンを耳にさして虚空に向かって話しているその姿は、なんつーか、狂人のそれとさして変わらんように見えちゃうン。

閑話休題

いまから二十年ほど前の話になる。当時飼っていた芝犬のコロちゃんと散歩を楽しんでいると、屡々、携帯電話を使って話しながら歩く人とすれ違うことがあった。そうしたとき、うちのコロちゃんときたら、きまって、電話をしている人のことを不思議そうに見つめていた。コロちゃんにしてみれば、人間が一人で話をしているのが不思議に見えたんだろう。してみると、犬は犬なりに、人間が話すときというのは他の人(あるいは犬)と目を合わせて会話・対話をするものだと認識していたのかも知らんなあ、一人で話をしている姿というのは異常な状況、と認識していたのかなあ、と思う。

閑話休題

あれはいつのことだったか、不要になったパソコンや携帯電話を市のリサイクルセンターに持ち込み処分を頼んだことがあった。どうリサイクルされるのかと少しく調べてみたところ、そうした精密機械に使われている金を取り出して再利用するのだという。しかもその再利用先というのが、次の東京オリンピックで使われる金メダルだというから驚いた。それを知った僕は、なんとなく誇らしげな気持ちになり(どちらかといえば東京オリンピックには興味がなかった、むしろ反対派だったというのに!)、そうして、そんな気持ちになった自分自身の心に驚き、且つ又、そうかあ、してみると、この前アメリカと戦争をした時に金属供出、なんつって、所有の鍋釜を持ってゆかれた戦争中を生きた人々も、もしかしたらどこか誇らしげだったのかも知らんなあ、と思った。

閑話休題

ああ、多分『カーネーション』の再放送は毎日観るだろうなあ。面白かったもんなあ。

閑話休題

なんというかこの、たといこんなどうでもいいウェブ日記であっても、文章を書くというのは面白いもので、わけても一番面白いのは、書いているうちにどんどんと自分の考えが変わってゆくことで、書き始めた時には思いもよらなかった結論に逢着したりすると、もう、すごくいい気分になってしまう。しかしこんな自分というのは、統一された考えを持てず常に浮ついている、そんな、確固たる信念を持たぬようなばかなのじゃないかと、自分で自分のことを訝しんでおったのですが、いつだったかに読んだ井上ひさし氏のエッセイにも、考えが変わっていくことがものを書くことの醍醐味、みたようなことが書いてあって、我が意を得たり、という嬉しい気持ちになった、というお話。

閑話休題

お後がよろしいようで。ではまたね。

某月某日某曜日

この数年、街に出る理由が大幅に減った。

基本的に人とつるんで何かをするというのが幼少の砌より大変に苦手で、そういうわけだから若い頃からじねん、一人行動が多くなる。思い返してみれば十三歳の折には一人きりで後楽園ホールに赴き旧UWFというプロレス団体の興行を観戦するなどしていたのだから、割と、一人行動の筋金は入って居るのではないかと思う。

私が若かった九十年代、本もビデオ作品も音楽作品もゲームもチケットも、街にゆかなければ購入・入手することができなかった。厳密にいえば通信販売もあったがそれはやはり最後の手段、いよいよ手に入らないときにメーカー直販で、ということはあったが基本的には店舗に赴き品物を手に取り購入した。 しかし世紀が一つ更新されたあたりからインターネットが台頭、するとあっという間にこれらはネットで購入するのが当たり前になった。私の場合、当節、本はkindleで読むのが大半となり、映像作品はNetflixやAmazonプライム・ビデオで視聴するのが当たり前となり、音楽はGoogleプレイミュージックなどのサブスクリプションで聴くのが当たり前となり、ゲームもダウンロードで購入するのが当たり前になった。チケットも、往時は気が狂ったようにチケットぴあなどに電話をかけていたものがネットで購入、プロ野球のベイスターズ戦に至ってはチケットをスマートフォンの専用アプリにダウンロードし、それを係りの人に提示することで入場可能となる、なんてなことになっている。

それら自体は至極便利なことで不満はない。店舗に赴くという行為に郷愁は覚えるものの、いながらにして全てが手に入るいまの方が断然いい。しかし、用もないのに街に出たときに行く宛てがなくなったのは大いなる不便だとも思う。なんとなく新宿まで出て本屋に行く、なんとなく秋葉原に出てニッチな商品を探して回る、なんとなく渋谷に行ってCDを探して回る、ヨドバシに行ってゲームを見て回る、みたいなことができなくなっている。どうせここで買わないと思うとどうも足が向かない。 おひとりさま、なんてな言葉が定着して久しいが、どうもこれは若い女性向けの言葉、要素であるように私の目には映る。おひとりさま、という言葉には「女性一人でも安心してお越しいただけます。今までは無理でしたからね」的な意味しか含まれてないように映る。私のようなむくつけきおっさんを暖かく迎えてくれる場所(たといば縄のれん、的な)には、おひとりさま、という言葉はあまりそぐわないような気がする。おっさんが一人でクダを巻いていておかしくない場所があったわけなのだから、わざわざ、おひとりさま、とおっさんに向かっては云わないのが道理だ。 しかし私の場合、都合の悪いことに下戸と来ている。だから、本来であればむくつけきおっさんを暖かく迎えてくれる場所にも一人で立ち入ることができない。さりとて流行りっぽいカフェに行くには、おっさんに過ぎて場の空気から浮きあがるに決まっている。スターバックスの商品名などもはや呪文にしか思えず、勇気を出して入店してもメニューを見るたび虚ろな気持ちになり、気がつくと、メニューの一番下に書いてあり、さほど呪文めいていないアイスチャイティーラテをどうにか注文、敗残の心持ちでこれを飲み干し逃げるように退店するのが常だ。

時代は変わりマジ便利になった。そのことに不満はない。ずっとソロ活動に重きを置いている私にとっては願ったり叶ったりの時代だ、と、世紀が変わり始めた頃は浮かれ気分で思っていた。しかしどうだ。気がついてみれば便利に溺れるうちに街に出る理由を失った情けないおっさんと成り果てている。 情けない。実に情けない。そうして行く宛がないからと、うららかな春の日などに近所の川べりに散歩にゆくと、ベビィカーを押した幸せそうな夫婦者が仲睦まじく散歩をしていたりして、またもや敗残の心持ちが沸き起こってくる。 ああ私の人生はもはや終わってしまった。街に出る理由すら失ってしまった。何も為さずに暮れて行く人生の彼岸。ああ。どうせ空しき独り身、どうかすればいま死んだところで誰の人生にも影響を及ぼすことなどない。いっそ死んでしまおうか。うららかな春の日に、満開の桜の樹の下に遺骸を晒そうか……。 なんて思ってみたものの死ぬる勇気もない。つーか、どうせ人なんか必ずいつか死ぬんだから、何もいま慌てて死ななくっても良いか、と思い直した私の住まいには明日の夕刻、Amazonからスケッチャーズのスリッポンが届く。しかもプライム会員特典の時刻指定便だ。嗚呼、斯くして靴屋にすらいかなくなった私の明日は、どっちだ。

某月某日某曜日

そうして僕は新橋演舞場に足を運んで『江戸は燃えているか』という喜劇の芝居を観てきたのである。

新橋演舞場の入り口にて

結論から云えば大変に面白かったんである。作・演出の三谷幸喜氏といえばこの十数年、氏がそれまでの傑作佳作を通して作り上げた三谷コメディとでも呼ぶべき笑いのみを志向した芝居・喜劇を、封印とまでは云わねども、ずいぶん抑えた作風の芝居を作っていた。無論それはそれで大変に面白く『國民の映画』など大変な高みに到達した芝居も複数あったけれども、やはり笑いが好きな僕のような観客としては、たくさん笑わせて欲しい、泣かせるよりも笑わせることの方が絶対に難しいし価値があるんだし、と思っている・信じているから、そういう、笑えるだけの芝居・喜劇を求めていた。今度の作品はその期待に存分に答えてくれたものだと僕は思った。 十二人もの登場人物を縦横に動かして”ドタバタ”を作り笑わせる、そんな戯曲を書くなど、それだけでも大変な筆力が必要と僕は想像する。氏が得意とする、誰かが誰かになりすます、という大きな筋があり、そこに無数のギャグ(当節云われる意味のギャグではなく本来の意味でのギャグという意味)が絡み合い、一つのギャグがのちの大きな展開の伏線になっているその見事さと云ったらなかった。理想をいえばあと一時間長ければさらにキャラクタの表現に深みが出せてより良かったのではないかと愚考するが、それでもその、なんというか、氏が、この十数年の間、奥の院に仕舞っておいた”笑い”の奥義を引っ張り出してきた、そんな印象を受けた。

中村獅童丈はもはや確固たる主役の風格を備えていて見事だと思った。硬軟自在なること実に素晴らしく、芝居を逸脱する大変な巫山戯を演っていながら、同時に物語を〆る見事な迫力ある演技を同時にやってのけて大に感心した。 TOKIOの松岡昌宏氏も獅童丈によく対抗したと僕はこれも大変に感心した。伊達に売れ続けているわけではないのだなあ。と思ったりなんかした。 そうしてまたこの主役二人に負けず劣らないのが松岡茉優嬢で、嗚呼、彼女はやっぱり天才だと思った。25歳にもならぬのにこんなに完成していていいのかしらん、と思ってしまうほどであった。コメディエンヌとしての勘所を産まれながらにして持っているのではないか、なんて思った。スイッチの入り方、そのスピード、タイミングが実に素晴らしいと思った。可愛いいのに迫力があって明るくって、それでいて何処と無く儚げですらありいい意味で浮世離れをしている。天才というのは何をやらせても天才なんだと改めて思った。だから天才なんだろうけど。

うーん、やっぱり笑いはいいなあ。やっぱり笑いが一番上だなあ、と改めて思った休憩挟んで三時間、で御座いましたよ。

某月某日某曜日

小学生の間ではいわゆるところのユーチューバーが人気だと聞く。その年頃に面白いと思ったことは多分、生涯に渡って面白いと思って生きていくだろうから、彼ら彼女らの面白さ・面白い人の像、というのは、当節のユーチューバーが基準になるんだろうと思う。 斯く云う小生とて、年端も行かぬ餓鬼の時分に伊東四朗・小松政夫のコンビによる電線音頭をはじめとする数々の面白コント、その少し後にやってきた漫才ブームで飛び出してきたツービートの面白さ、さらにその少し後にファンになった立川談志家元の面白さ。それらを目一杯見聞きしたこと、小生にとってこれらの存在が「面白い」の基準になっている。 だとすればいまの小学生たちにとって、ヒカキン氏をはじめとするユーチューバーがその面白さの基準となって生涯を支配するんだろうと思う。 これは良い悪いではない。それが時代というもの。どの時代にぶち当たるかはもう運だけだ。 こういうことを云うのは歳をとった証拠だが、ユーチューバーが面白さの基準になるような時代の小供でなくってよかった。いまの時代に小供だったら、どこまで行っても落語の面白さには気づかなかっただろうし、モンティ・パイソンやマルクス兄弟に行き着くこともなかっただろうし、漁るようにしてまで”笑い”を楽しむと云うことはしなかっただろうし。本当によかった。本当によかった。漫才ブームに間に合ってよかった。漫才ブームの以前にも、それはまあ掠った程度だけど間に合ってよかった。

でも信じたいんだよなあ。いまの小供たちの中にも、ヒカキン氏らユーチューバーには見向きもせず、サンドウィッチマンやナイツや華丸大吉や中川家やカミナリや春風亭昇太や立川志らくをくんくんになって見聞きしているような小供がたとい少数であってもいる、って。

某月某日某曜日

色々なものが世の中から消えて行っている。たといば僕が小供から若者だった頃、興行的なものを観に行くと、そこには必ず、チケットを違法に高値転売するダフ屋の姿がたくさんあった。プロ野球とプロレスが同時に開催されている水道橋駅から後楽園にかけての場所など大変な賑わいで、それらダフ屋の皆さんを縦横に交わしてからでなければ球場・会場の入り口にたどり着くことがままならなかった。 僕はダフ屋からチケットを購入した経験はないのだが、あれは中学二年の時だったか、とにかく八十年代の中頃、横浜スタジアムの外野席の券売所の前で友達二人と並んでいたら、ヤクザみたいな風体、としか表現のしようがないおじさんが近寄って来て「お前ら一枚ずつ大人のチケットを買ってこい」と金を渡されその通りにした。買って来たチケット都合三枚を渡すとおじさんは我々に単簡に礼を云ってから「ジュースでも飲め」と千円をくれた。あのチケットは売れたんだろうか。 そんなおじさんたちの姿も「券あるよー券あるよー指定席並びであるよー」というダミ声も、そうさな、西暦が2000を数える頃には完全に興行の会場の入り口付近から消えた。おじさんたちはどこに行った。

そうしてダフ屋の姿が興行街から消えて幾星霜。その姿が消えたってことはやっぱり世の中に存在しなくなったのか、夢のように消えてしまったのかと思えば然に非ず、チケットなんちゃら、てな類のチケット専用のオークションに姿を変えて現在も存在している。いやそらあもちろん、オークションサイトでチケットを販売しているのが当時のダフ屋たちが転生した人々ばかりであるとは限らない。というか寧ろ、現在ではいわゆるところの一般人の皆さんがすごくカジュアルな感じで転売をして儲けを出していることの方が多いのではないかと僕は想像している。現に僕も、チケットではないが、普通の勤め人が異常な品薄だった頃のNintendo Switchを転売して利をあげているケースを実際に見聞きした。 そうしてまた買う方も、かつてであればみるからにヤクザ者の風体をしたダフ屋からでなければチケットを不正購入できなかったものが、インターネットを通じて、スマホアプリを通じてカジュアルに購入できるから、皆、罪の意識なくそれをする。ヤクザ者の風体をした人からだったらきっと買わないだろう人々も平気で高値転売されているチケットを買う。

なんだかそう考えると現代の方がよほど酷い気がする。一般人が平気で(無意識で)ヤクザ者と同じことをしている。買えないはずのチケットがヤクザ者の手を借りずとも買えるんだからいい時代、と云えるのかね。なんてなことを『転売目的の購入を禁じます』とチケットに書かれてあるのをみるたんびに思ってなんとなく心がくさくさする。

でもまああれか、インターネットが皆の手に行き渡った瞬間、SNSを通じて、一般人が芸能人よろしく日常を誰憚ることなく公開したり、評論家よろしく時事問題について上から目線で論じたりしてるんだからおんなじことか。つーか、だとしたら僕も同じことか。要はこれが時代ってことですな。嫌だけど、現実は事実だからしょうがないなあ。成る可く分を弁えて生活をしたいのだけれども、そんなことを云っていたら時代に取り残されてしまうんだろうなあ。困った困った。はっけよい困った。

某月某日某曜日

男子三日会わざれば刮目して見よ。といえば有名なグリム童話の一編であるが、昨年一年というもの、僕はそんな思いにかられることが連続してあった。と云ってもあまり人と会わぬように日々を暮らしているから刮目したのは男子ではなくって、いわゆるところのITに関することだ。 まず七年ぶりにWi-Fiルータを買い換えた。Netflixの上陸を機に動画配信サービスをメインで使い始めたために5GHZ帯に接続できるルータを使いたいとずっと考えていたからだ。でもなあ、ネットの設定って面倒臭いんだよなあ、大概ブラウザでルータの中に入って、みたいなことさせられるんだよなあ、それに昔と違っていろんな機器がWi-Fiにぶら下がっているから全部設定やり直しだしなあ。なんて思って躊躇していたのだが、いざ買ってみたら、購入したBUFFALOのルータときたら、僕のPCがMacであるにも関わらずルータの名前とパスワードを入れたらすぐにつながった。拍子抜け。そうしてまた、ルータ本体にパスワードとQRコードが印刷された名仕様のカードが添付され、さらにはスマホ・タブレット用に接続を簡単にする専用のアプリまで用意されていてあっという間に済んでしまった。やはり拍子抜け。その後もなんらの問題もなく快適な状態が継続している。 次にプリンタを九年ぶりに買い替えた。今まで使っていた機種はプリンタ単機能のものでWi-Fiなどついていない。今となってはシンプルに過ぎる構成のものだ。さらにはメーカーでもドライバの提供がされなくなってしまったために、流石に潮時だ。と思って、ブラザー製の大変にお安い複合機に買い替えた。今までの経験から、どうせ新しい機種とは云っても印刷位置を合わせたりするのが大変なんだろう、ハガキなんて何遍やっても郵便番号のところに数字がビタリとハマらなかったりするんだろう、インクもちょっと使わないとすぐに詰まったりするんだろう、と思いながら設定をして、使い始めてみたらどうよ、印刷位置の合わせなんて一発でビタリと合う。しかもWi-Fiがついているから、スキャンした画像をそのままクラウド・ストレージにアップすることもお茶の子さいさい。インクの詰まりも皆無と云ってよく、全く快適な環境が簡単に構築されてしまった。しかも安価で。 さらにはつい先日のこと、以前はくんくんになって使っていたが、ここ八年ばかり全くと云っていいほど使っていなかった『Poser』という、人体に特化した3D画像作成ソフトのことがふと気になり、最新版はどうなっておるのだろう。と、軽い気持ちで調べてみたら、往時はイーフロンティアが販売していた当該ソフトが現在、ソースネクストから販売されていて大に驚いた。のみならず、僕が調べた時には折しも最新版である『Poser11 Pro』、定価であれば四万円くらいするものが期間限定特価三千八百円、つまりはほぼ投げ売りみたいな状態で売られていたからこの機を逃してはたいへんな後悔をすると思ってすぐに買った。それはまあ、人体に特化した3D画像を作成するソフトといえば当節、時代の趨勢はDAZ Studioにあるのだけれども、慣れぬ鉄砲より慣れたナイフ、てな感じで、久々に『Poser』を使い、それをいじる楽しさをくんくんに感じている。しかしソースネクストは何を思って『Poser』の販売権を獲得したんだろうね。そんなに未来があるとは思えんのだけれど。ちなみに最初に『Poser』を買った時そのバージョンは3だったっけね。九〇年代の終わり頃のことだ。 てな塩梅で、ここんところ僕は三日以上会わざるものに久方ぶりに対面し、刮目して見ることが続いた。それは気持ちが新鮮になる体験でまったく良かったのだけれど、ふと、怖いような心持ちにもなった。僕は十代の半ばからパソコンを所有し、それから三十年というもの、いわゆるITと呼ばれる関連については最先端に興味を持ち続けていた、はずだった。だのに、気がついてみればルーター、プリンタ、ソフトウェアについて、僕はすでに最先端を追うのをやめてしまっていた。そうしていま、浦島太郎的な感じで驚いてばかりいる。やがてはこの状況が進み、あらゆることに興味がなくなっていくのかもしれないなあ、そうなれば自然、最先端のものを理解することすらできなくなってゆくのだろうなあ。と少しく恐怖した。僕の明日はどっちだ。SuperFlyレンダリングをしながら考えよう。

某月某日某曜日

たといばこの、芸能人様がインスタグラムなどにアップした写真に対して、それが可愛らしい、を標榜した写真であれば「可愛いー(*^◯^*)」「マジ天使」なんてなコメントを投稿し、それが楽しい、を標榜した写真であれば「楽しそうですね♪」なんてなコメントを残す、という、そんな、相手の意図の通りにコメントを書き込む、えーと、ファンと云っていいのか、とにかくとういう人々というのが確実にたくさんいらっしゃって、そうした光景が昨今では、ネットニュースとして取り上げられることが当たり前となった。私のような了見が斜めに伸びてしまった人間からすると、何を予定調和なことをやってやがるんだこいつら、へっ、ばっかみてぇ。なあんて、死んだ魚の眼をしながら思ったりするのだけれど、同時に、うーん、この芸能人と一般人の予定調和の光景はかつてどこかで見たことがあるぞ、と永らく思っていたのですが、最近、そうだ、これって『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングで、コーナー冒頭のタモリの呼びかけに「そうですね!」と唱和したり「じゃあそろそろお友達を紹介してもらって」に対して「えー!やだー!」と唱和していたあのれんじゅう、見ていて身体中に虫唾が走るような気色の悪い空間、あれがネットに現出したのだと気づいた。斯くしてまた、気づかなくていいことに気づいた。そうですね!

某月某日某曜日

郊外電車に乗り込み帝都に向かっていた時のこと。ラッシュ・アワーの頃合いではなかったから車内は閑散としている。が、全ての座席は埋まっている、そんな状況。私は何の気なしに、乗降口からほど近い椅子の前に立ち吊革につかまった。ふと、眼前の座席に目をやると、そこには、年の頃二十五、六といったOL風のうら若き女性が座っていた。ショートカットと可愛らしい丸い目元が特徴的で、先般の平昌オリンピックで活躍した小平奈緒選手似てないこともない。女性はスマホを操作していたが、その日は春を思わせるような陽気で、それに誘われたのかやがて眠くなったらしく、うつらうつら、こっくりこっくりとやり始めた。

よくあるこんな状況

早春の日らしい朗らかな光景じゃわい、なんて思いながら、私は女性から目を離し窓外に目をやった。流れる風景をぼんやりと眺めながら、今後の予定などに思いを巡らせていた。すると突然、視野の一部に不穏なる動きを感じた。何事、と思って動きを感じた方に目をやると、眼前でうつらうつら、こっくりこっくりとやっていた小平奈緒選手似の女性が、眠ったまま、頭をもたげ、つむじのあたりを後部の壁に預けるようにして眠り始めた。どうやら愈々深く寝入ってしまい始めたらしい。 うららかな早春の昼日中、すぐ目の前で若くて可愛らしい女の子が眠りこけているのを見られるのだから眼福眼福、なんて思ったその刹那、私の目は眠りこける彼女の顔に惹きつけられてしまった。だって彼女ときたらこんな顔で眠りこけているのである。

突然のキス我慢選手権

完全なるキス顔である。しかも上で申し述べた通り彼女、頭をもたげているから私の顔面に向かってまっすぐに顔を向けている状態なのである。つまり私に対して、ねぇ、チューしてよ。と往年の水野美紀が出ていたテレビ・コマーシャル的に迫っている、みたいなことになっているのである。これは求められているのか。彼女は寝たふりをしているだけで実は求めてきているのか。私はいま、見ず知らずのスケート選手みたいな自分よりもうんと若い女性からモーションをかけられているのか。これでいきなり私が彼女にチューしたらどうなるのか。一気に恋が始まるのかそれとも変態とされて逮捕投獄され社会的に抹殺されるのか。きっと後者だろう。最近女性とキスをしたのはいつのことだっけか。初めてキスを交わしたあの子は今頃どうしているのか。ああキスしたい。俺だってできればキスしたいよ。うら若き女性と真昼間っからチューチューしたいよ。くそう。チューしたいよう。 なんて多少パニックに陥りながら、相変わらずキス顔を続ける女性の顔を、他の乗客にそれと悟られぬようチラチラ見続けた。やがて電車は私が目的とする駅に到着した。吊革から手を離しそこを立ち去る刹那、いまいちど彼女の姿を見たら、駅に到着することに気づいたのかふわりと目を覚まし、もたげていた頭を元に戻して再びスマホをいじり出した。 きっとそうだ。そうに決まっている。彼女は寝たふりをしていただけで真に俺にモーションをかけていたんだ、一目惚れをしたのだが私だってもういっぱしの大人なんだから郊外電車の中で初対面の人にいきなり好きと云えるはずもない、的な分別が邪魔をして直接的な行動に走れないからせめてキス顔を送ろう、みたいなことを思ってこんなことをしたんだろう、なんて、幸せな誤解をあえて思って電車を降りた。日常って結構楽しいよ。

某月某日某曜日

新宿駅でとある郊外電車に乗ったら愛用のpebble timeに通知ありけり。何事と思ってそれを見やれば「新宿駅 自宅までの所要時間〇〇分」と表示されている。いったいこりはなんだ、と阿呆の口調で思って通知元を調べたらGoogleマップが吾輩が新宿駅にいることを特定、親切にも自宅まであと何分かかると教えてくれたのだとわかった。かくて吾輩の生活はGoogleの監視下に置かれることとなった。なんたる恐怖、なんつって巫山戯半分で云っているうちに本当に誰かの監視下に置かれてしまっていた、てな時代がくるのかも知らんね。まあ、それができるとなりゃあするよな。

某月某日某曜日

電車の中でスマホを操作している人を眺めるのはなかなかに面白いものです。キメッキメの若くて綺麗なおねいさん、しかしスマホを操作するその姿は、まるで老眼の人がそうするように顎を少しあげていながらも視線はスマホのある下方向へ、顎が上がっているのに視線は下に向くのだから自然、目が細くなり口元広角は下がり、そうして不自然な角度に首を曲げるから下顎のあたりには二重アゴが形成され、更には画面に何か愉快なことでも表示されているのか多幸症めいた薄ら笑いを浮かべ続けています。その姿はまるで莫迦の人のそれでせっかくの美人も台無しなのですが、当のおねいさんはそんなことには全く気づいておらず、そのある意味、無垢なる姿が本当に素敵で滑稽でたまりません。 そうしてまた、スマホに夢中な人というのはどうしたことか、私のような少々気のおかしい人間がじっと見ていたとしてもその視線に気づくことがありません。かつてのように小説本や日経新聞を読んでいた時代の綺麗なおねいさん方であれば割とこの視線に気づいて、怒ったような怯えたような、怪訝なる表情を浮かべてからすぐに視線を逸らしたものです。しかしスマホを眺めているおねいさんはいっかな気づくことがなく、不細工に歪んだ面相を天下の往来に晒したままスマホを眺め続けます。 やはりスマホというのは恐ろしいですね。悪魔の機械ですね。テクノロジーが好きで、趣味としてオモチャとしてスマホを所有している人間であればSNSに用はないので、異常なる視線にも気付かぬほど、スマホに意識と集中を持っていかれることはないのですが、常識として、日常欠くべからざる道具・連絡手段としてスマホを所有している皆さん、人間関係構築のためにスマホがないと生活が立ち行かないみなさんというのは本当に大変だなあ、と私なぞは思うのであります。

某月某日某曜日

あれは去年の11月ごろだっただろうか、SMAPを辞め、ジャニーズ事務所を退所した例の三人がAbemaTVで長い時間の配信を行ったことがあったが、その話題を書いたネット記事に「かかる配信のアクセス数をテレビの視聴率に換算すると1.5%程度」みたいな発言が、テレビ関係者からあったというものがあった。それを読んだ僕は、嗚呼、こりゃあ如何にも斜陽産業の中にいながらそれに気づかぬ人の感覚・発想だなあ、と思った。新興勢力の現状を正しく認識せずとかく過小評価する、というのは斜陽の中にいて権勢を振るっている人の典型だと思った。格闘技でグレイシー柔術・バーリトゥードが出てきたときのプロレス界の発言がこんな感じだったよなあ、と思い出したりした。他にもDeNAがプロ野球に参加するのしないのという話になったときに「モガベー」とか云ってその存在を理解しようとしなかった/出来なかったナベツネとか(結局いまではジャイアンツよりベイスターズの方が人気が上、みたいになってるン)。こういう、時代に取り残されたところで吠えている人たちって見ている分には面白いんだけれど、それ以上に無常感が横溢していてなんとなく切なくもなるネ。 それにしてもほんと、時代の変遷だけはどうしようもない。私ごとで恐縮だが、当時流行していたFLASHアニメのイベントに呼ばれていた頃、時期的には2005年とか06年ぐらいだったと思うけど、YouTubeが伸してきていると知ったときには、時代がものすごい音を立ててカーヴしていっている印象を受けたものでしたよ。なんつーか、自分のやっていることが急に古いもののように思えてならなくなっちゃった。更にその少し後にニコニコ動画が出てきて、嗚呼、これでもう完全にFLASHのムーヴメントは終わりだと思った。あれから幾星霜、そのニコニコ動画すらももう古くなりかかっているんだから時代の変遷というのはまことに恐ろしい。でもだから面白いんだけどね。

某月某日某曜日

オリンピックだから観る。それ以外では全然そんな競技なんて観ません。みたいな姿勢が嫌なんですよ。カーリングが面白いと思ったらどんどん観ればいいじゃない。お前らもはやスポーツが好きですらなくってイベントが好きなだけじゃん。って思っちゃうン。自慢をするつもりはないがカーリングの藤澤五月選手なんて僕は四年前からスターだと思ってNHK-BS1で女子カーリングの中継があるたんびに録画をしてまで観ておった。実際どこかのブログ・サービスに藤澤選手は天才が持つ空気感と同じものを感ずる、てなことを書いた記憶があるが、いかんせん僕はどこのブログ・サービスを使ってもすぐに飽きてほったらかしにしてしまう悪癖があるから、いつどこで書いたのか懸命に探したけれども見当たらない。思えば当時、藤澤選手の話を周囲の人々にしても皆、可哀相な人を見る目で僕のことを見るばかりであった。カーリングなんてマイナースポーツの話なんて聞いたってしょうがないし、みたいな、頭のおかしな人を適当にあしらうような、木で鼻を括るような反応しか示さなかった。それがどうだ、ちょいとオリンピックで注目されたら、かつて僕のことを可哀相な目で見た人々が嬉しそうに藤澤選手の話を振ってくる。しかも僕が話をしていたことなどすっかり忘れて「藤沢五月ってすごいね、見た?」なんつって。ふざけんな観たどころじゃねぇよこちとら手前ぇなんかよりよっぽど前から観てらぁ、と思うが無論そんなことは口に出さず曖昧な作り笑顔で答える。争うのも面倒だしね。つーかほんとなんなんだお前ら。だからオリンピックは嫌なんだ。つうか、オリンピックそのものはいいけれど、それを見てその場限りで盛り上がってすぐに忘れちまうこういう手合いが嫌なんだ。

某月某日某曜日

川崎市民ミュージアムで開催中の『MJフェス  みうらじゅん展覧会』を観てきた。なんというか、圧倒的なくだらなさ、小供の頃の自分に忠実に生きているもの凄さ、に、あてられっぱなしで観終わった後には大変な疲労感を覚えた。しかしこの疲労感というのは紛うことなきフェスのそれであって、なんというか、いやあ、すげえなあ。と思うばかりで御座った。テレビラジオでみうらじゅん氏の発言を聞くだに感ずるのは、何かを見たとき「〇〇みたいになってる」式の例えのすごさでその幅広いこと、なるほど、と首肯させられる比較の見事さで、こういう、関連のない二つの事柄に類似を見出し共通項に入れてしまう、というのはやはり天才の発想だよなあ、という感じをいつも受ける。天才ってのぁ無から有を生み出すんじゃなくって、有と有を組み合わせて新たな価値を現出させることなんじゃあないかしらん、なんて思うんだな僕ぁ。グッズ売り場でTENGUのスクイーズ人形と山岳戦隊天狗レンジャーのストラップなどを買った。

某月某日某曜日

暇だからインターネットについて考えていた。そうしてインターネットについて考えていたところ、そうか、いまやインターネットについて考える、ということがすでにインターネット的ではないのだ、いまやインターネットなんてものはテレビ・ラジオの放送波、あるいは電気ガス水道などのインフラストラクチャと同様のものであってわざわざ考えるほどのものではないのだという考えに至った。けれども僕はこれからもきっと、インターネットについて考えるのを辞めることが出来ないんだろうと思う。思えば僕が初めてインターネットを知ったのは90年代も後半に差し掛かったばかりの頃。23:00から始まるテレホタイムに電話回線を使ってわざわざアクセスしなければ垣間見ることが出来ないという、えーと、なんつのかな、この世ではないところに這入り込んでゆく、みたいな感覚を味わうところ、時代状況だったのであり、そういう、この世ではないところの居心地の良さ、みたいなものこそがインターネットだ!  てな感覚を存分に胸に刻んでしまったからもうそこから心が離れられないン。だから僕のインターネットはいつまで経ったってそういう、この世ではないところ、なのであって、たとい、世の中の大半の人、つまりはテクノロジーになんら興味のない人々が常にスマホを携帯、四六時中ネットに接続するようになるなど、インターネットがこの世と地続きになった現代に生きているとしても、僕はなるべく、インターネットをこの世ではないところとして思ってゆきたいと思う。というか、そうしか思えないんだからしょうがないン。

某月某日某曜日

年が明けてからこちら、ずっと、Nintendo Switch版『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』で遊んでおった。というか今でもまだちょっとずつだが遊んでいる。ならばクリアして居ないのかといえば然に非ず、ゲーム開始から二週間ほどでメインチャレンジ(ストーリー)はクリア、つまりは憎っくきガノンを見事ぶち殺して荒廃して居たハイラルに平和を取り戻した。しかしこのゲームは実はここからが始まりと云って良い。憎っくきガノンをぶち殺せるようになったあたりで、ようやくプレイヤーはオープンワールドであるBotWのゲーム世界で一人前に暮らす技量を身に付けると云って良い。このゲーム、オープンワールドとしての出来が全く素晴らしいから、走り、登り、飛び、泳ぎ、戦い、狩り、料理し、食べ、話し、観察し、みたいな、ハイラル世界で何気ない生活を送ることが至極楽しい。ハイラル世界をウロウロしているだけで発見の面白さがぐんぐん堪能できる。そこにいるだけで楽しい。本当のセカンドライフはここにあった。 また僕はエンディングを眺めながらこう思った。ガノンをぶち殺した後の平和になった世界を気ままに漫遊したい(エンディング後もアイテムを集めたりダンジョンを攻略したりと継続して遊べるが、状況設定は強制的にガノン討伐直前に戻されてしまう。つまり平和が恢復された後の世界を歩くことはできない)、とある要素をクリアすると観られる真のエンディングで表現されたように、ゼルダ姫と二人、馬を並べてハイラルをイチャイチャ漫遊、神獣の様子を確認したりしたい。そうして二人で連れだって世界各地の宿屋や馬宿などにVIP待遇で宿泊、而してのち、翌朝、宿屋の主人から「ゆうべはおたのしみでしたね」とか下卑た感じで云われたい。何しろゼルダ姫ときたら、家柄のよろしい上に大層な美人、しかも十七歳(本当は+100歳だけど)、かてて加えて小煩い両親が既にいないんだからいやあこらたまらん。こらたまらんよ。何がたまらんって十代の若者がもっともやりたいことをやりたい放題にできる状況でこらたまらん。そういうわけだからこれまで二本出ているBotWの追加コンテンツ、その新たなコンテンツが出るとするならば是非ともそういう塩梅で、平和世界を漫遊するものにしてもらいたいのだがそんなのはもはやゲームじゃないね。興奮する要素がないものなんてゲームにはならんわね。でもね、でもでもでもでも、たとい平和な世界であってもそこに人間の可笑しみが表現できていればちゃんとゲームとしても面白いものになると思うんだがね。BotWぐらいの世界が構築されていればネ。ほんと、散歩してるだけでも面白いんだから。

某月某日某曜日

あけましておめでとうございます。と、書いているいまは実は弥生三月、最高気温が摂氏二十℃に垂んとするような日和であり、そう、すでに旧暦でも正月は過ぎてしまったんですが、昨年、RPGツクールをいじっている、などと大言壮語をして居ながら急に、みやかけお、としての活動が嫌になってしまって、tumblr以外の全てのネット活動をやめてしまった私としてはやはり、久しぶりに皆様の前にお目通りをさせていただくということになりますれば、あけましておめでとうございます、と云わなければならない、なんて思っているのであります。というわけで、今一度、ホームページ作りに立ち向かおうと思った私ではあるのですが、作品の形で何かをつくるには長く休みすぎてしまい、どうも感覚が戻りません。何せ<br>タグを思い出すのにも往生する始末。これではとても使い物にはならない。これではとても作品など作れない。ならばどうするか、日記でも書きましょうか。書きましょうか!  いまどき、インターネットに自分のホームページを開設し、そこで日記めいたものを書いているなんて、ちゆ12歳さんぐらいのものではないか、なんて思ったら、なんか面白そうな感じがしたのでホームページに日記を書こうと思ったのであります。だから僕は書く。ホームページに日記を書く。そう、これで僕も世界に自分の考えを自由に発信できるんだ!  世界を変えられるんだ!  僕がメディアになるんだ!